弁護士の事件簿・コラム

「いじめ」の定義は何のために?

弁護士 栗山 博史

1 はじめに
 2014年3月14日の「いじめによる最悪の被害を招かないために」というコラムの中で、いじめ防止対策推進法(以下「いじめ防止法」といいます。)の成立・施行について触れました。いじめによって、自殺や大けがをさせられた、長期間学校を休んだ等の被害が生じたことが疑われる場合には、法律上必ず調査(「重大事態調査」といいます。)が行われることになったことをご紹介しました。

●コラム/2014年3月14日「いじめによる最悪の被害を招かないために」

 重大事態調査が行われると、調査の結果をまとめて報告書を作成し、被害者(保護者)や学校側に提供されます。実際に法律が施行されて以降、私自身、第三者委員会の委員や被害者(保護者)の代理人として重大事態調査に関わり、また、日本弁護士連合会子どもの権利委員会の活動をする中で、いろいろな重大事態調査の報告書を目にしてきました。
 重大事態調査の経験を通じて考えていることはいろいろあるのですが、ここでは、いじめ防止法が定めた「いじめ」の定義によって、かえって、いじめがもたらす人権侵害の本質についての洞察がおろそかになってしまっているのではないか、ということを述べたいと思います。

2 いじめの定義が意味するもの
 いじめ防止法では、①一定の人的関係にある子どもが、②心理的または物理的な影響を与える行為を行い、③行為の対象となった子どもが心身の苦痛を感じていれば、「いじめ」に該当するとされています。
 20年ほど前の時期には、文科省は、「いじめ」について、自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加えて、相手が深刻な苦痛を感じているものと定義していたのですが、いじめ防止法では、上の赤字で書いた語句は削られています。
 いじめ防止法が「いじめ」の定義をこのように定めたのは、それまで学校現場で、いじめの範囲が狭く捉えられていたことによって被害者を救えていない状況を何とか改善したい、いじめの被害者を一人も取りこぼすことのないようにしたい、という思いからでした。
 「一方的に」とか「継続的に」といった形で限定してしまうと、いじめられている子どもを救えなくなってしまうという考えから、あえて、子ども同士の強い・弱いといった関係性や、被害が継続しているかどうか、などの事情は問わずに、また、いじめの対象となった子どもの苦痛の程度を問題とせずに、「いじめ」に当たるかどうかを判断するとしているのです。
 いじめ防止法は、学校の先生方に対して、何らかの苦痛を感じている子どもがいたときに、「これはいじめではないから……」などといって軽視することなく、子どもたちの日頃の行動や人間関係などの背景をよく調べて、そして、問題の本質を見極めたうえで、必要な指導や支援をして下さい、というメッセージを発しているとみることができます。

3 重大事態調査において求められているもの
 さて、重大事態調査では、いじめがあったかどうかが調査事項の1つになっています。  重大事態調査は、通常、弁護士や心理士、スクールカウンセラー、精神科医などの専門家がチームを組んで行うのですが、いじめの定義どおりの「いじめ」があったか否かということを確認することが調査の目的だと捉えてしまうと、問題の本質の解明に行き着かず、あるいは、本質から逸れてしまうことになる、と感じています。
 たとえば、AがクラスメートのBから殴られて転んで怪我をしたとします(第1事案)。これをいじめ防止法の「いじめ」の定義に当てはめれば、同級生Bの殴るという行為によってAが転んで怪我をしましたのでAは苦痛を感じ、Bの「いじめ」があったということになります。別の日に、AがクラスメートのCから、「バカ、アホ」などと言われ、Aが同じようにCに対して「バカ、アホ」と言い返したとします(第2事案)。これを見ると、確かに、お互いに言葉を投げかけており、心理的影響を与える行為をしているけれども、お互いにふざけ合っているのかもしれなくて、AがCの言葉によって苦痛を感じたとまではいえず、「いじめ」があったとはいえない、と評価されるかもしれません(特にAがいじめを苦に自殺してしまったような場合は、Aの気持ちを直接聴くことができないのでこのような判断になることがあります)。では、また、別の日に、今度は、AがクラスメートのDに、帰宅時に「バイバイ」と挨拶したところ、Dから無視されたとしたらどうでしょうか(第3事案)。Dは何らかの行為をAに対してしているわけではないので、Aが嫌な思いをしたとしても、「いじめ」があったとはいえない、と結論づけられる可能性があります。

 重大事態調査の報告書において、第1事案、第2事案、第3事案をそれぞれ、「いじめ」があったかどうか、という観点から分析したところ、第1事案は「いじめ」に該当するが、第2事案と第3事案は「いじめ」ではない、と結論づけられていたとすればどう思われるでしょうか。
 第1から第3の事案は、それぞれの出来事を見ると、それぞれAとB、AとC、AとDとの間の個別のトラブルなのですが、そうではなく、もしかしたら、Aはクラスメートから、疎外され、孤立している関係性があるのではないか?という疑問が出てこないでしょうか。また、第2事案については、AはCに言い返しているが、A自身の内心では本当は苦しくて必死の抵抗をしているという見方ができないでしょうか。さらに、第1事案で、Aは転んで怪我をしたから苦痛を感じていると評価されているけれども、Aの本当の苦痛は、転んで怪我をしたことによる身体の苦痛ではなくて、日々、学校でも、自宅に帰ってからも途絶えることのない心理的な苦痛かもしれないという見方はできないでしょうか。

 重大事態調査において、いじめがあったかどうか、を調査した結果、いじめ防止法の「いじめ」の定義が前述のように定められているために、子ども同士の関係性や背景事情に踏み込まなくても、「いじめ」に当たるかどうかの判断をすることができます。
 その結果、数多くある重大事態の報告書の中には、一つ一つの出来事を分断して、何らかの行為があるか、何らかの苦痛があるかを考え、「いじめ」に当たる、当たらないという判断をすることに終始し、完結している報告書が散見されます。
 いじめ防止法は、多くの被害者を救うために「いじめ」の定義を単純化し、「いじめ」を認定しやすいようにしているのですが、いじめによる子どもの本当の苦しみは、子ども同士の関係性や、同じような事態が継続することによってもたらされることが多いので、個々の出来事を「いじめ」の定義に当てはめて、「いじめ」があったかどうかを判断するという手法だけでは、いじめの被害者の本当の苦しみに肉薄できないということが起こり得ます。
 いじめの被害者をより多く救うはずの「いじめ」の定義によって、かえって、いじめの被害者の苦しみの本質の理解から遠のく、という不合理な状況が生じているように思います。

4 おわりに
 重大事態調査において、先に述べたような報告書が散見される理由は、いじめ防止法が「いじめ」の定義を単純化して定めている趣旨が正しく理解されていないからかもしれません。
 繰り返しになりますが、いじめ防止法の「いじめ」の定義は、学校現場においていじめを早期に発見し、対処をしやすくする(対処すべき事態を広く捉える)という観点から単純化しているだけです。
 「いじめ」を発見した後、その後、「いじめ」の定義には含まれてこない、子ども同士の関係性やクラス内での立ち位置、行為の継続性といった事情が調査され、そのようないじめの全容解明の結果、指導・支援に結びついていきます。いじめ防止法の「いじめ」の定義に当たるというだけでは本質的なことは何もわからず、解決につながらないのです。
 重大事態調査においては、専門家は、いじめ防止法の「いじめ」に当たるかどうかの判断だけでは表層的な判断になりかねないということを肝に銘じ、被害者の苦しみの本質に迫る視点を保つ必要があるように思います。

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