運転者はどちらなのか -横浜地裁が無罪判決-

弁護士 栗山 博史

2004年6月30日

2004年5月18日、私が弁護団の一員として関わっていた業務上過失致死・道路交通法違反被告事件について、横浜地方裁判所第4刑事部(廣瀬健二裁判長)は無罪判決を言渡しました。

★本件事案の概要
 本件事案の概要は以下のとおり。
 1998年12月30日の夜、被告人は勤務先関連会社の従業員仲間が集まる忘年会に参加して泥酔し、被告人の所有する普通乗用自動車(以下「加害車両」と言います)が停めてあった駐車場(本件事故現場)まで、仲間Oが運転するワゴン車で送ってもらった。そのワゴン車には、同じく泥酔した被害者のほか、Aも同乗していた。
 12月31日午前1時頃、ワゴン車はこの駐車場に到着し、被告人・被害者・Aの3人がこの駐車場でワゴン車から降車した。そして被告人とAが加害車両に乗り込んだ。加害車両が、駐車場から800メートルほど離れたところにある被告人宅に向けて発進したところ、どういうわけか被害者が駐車場内に横臥しており、加害車両は被害者の身体を轢過し、その後しばらく被害者の身体を車底部に引っかけたまま走行し、十数メートル引き擦るなどして、被害者を死亡させた。
 検察官は、被害者を轢過したとき加害車両を運転していたのが被告人であるとして、事件から約3年後の2001年12月に起訴。
 被告人は、「駐車場から被告人宅まで、Aが運転して送ってきてくれた、自分は後部座席で横ばいになり寝てしまった」と主張したのに対し、検察官は、「駐車場で運転していたのは被告人であり、その後、Aは、被告人の運転があまりにも危険だったので途中で運転を交代した。」と主張。つまり、加害車両が被告人宅(前述のとおり駐車場から800メートル)に到着した際に運転していたのがAであることに争いはない。最初からAが運転していたのか、それとも、最初は被告人が運転し、途中でAが運転交代をしたのか。争点だけは明確だった。

★暗中模索の日々~弁護活動の初期
 この事件は、2000年1月に一旦は不起訴になった事件。それが2001年12月に再起、公判請求という異例の経緯を辿った。
 再捜査の端緒は、遺族が被告人や保険会社を相手に起こした東京地裁の民事損害賠償等事件で、2001年2月、「被告人が運転者」と認定され、遺族から検察審査会に申立がなされたことだと推察される。
 本格的な否認事件ということで弁護団を組み、弁護団員それぞれ大部な刑事記録に目を通した。前述のとおり争点だけは明確なのに、真相がわからない。その理由はただ1つ。当時、被告人は酔っ払っていて、記憶が断片的。「駐車場で運転していってやると言われた。でも、そう言ったのがAかどうかはわからない。」「駐車場でポケットから鍵を取り出したことは覚えているが、それをAに渡した記憶がない。」「駐車場で後部座席に乗ったと思うけど、
 間もなく寝入ってしまい、その後のことはわからない。」捜査段階の供述も、打合せ時の供述もずっとこんな感じだった。被告人自身が、犯行時のストーリーを自信を持って語れない。
 一方で、Aは、検面調書上で、「被告人が運転した」と明確に言い切っている。飲み会から被告人宅に行くまでの経過も細かく述べている。ワゴン車の運転者Oは、「被告人が加害車両の運転席に乗り込むところを見た」と述べている。たまたまバイクに乗って通りかかったTは、駐車場と被告人宅の間の道路上で加害車両が停車しており、Aが車外にいるところを目撃している。
 断片的で曖昧な記憶の被告人と、複数の固められた証拠。現場に行ってみても、調書を読んで見ても、弁護活動の指針が見えず、時間だけが過ぎてゆく感じがした。

★証拠開示
 私たち弁護団は、事件後まもない時期に作成された供述調書に打開のいとぐちがあると考え、証拠開示命令請求、その前提としての検察官手持ち証拠の釈明命令の請求を行い、口頭でも繰り返し求めた。前述のとおり、本件の特徴のひとつは起訴に至るまでの経緯にある。1998年の年末に事件が発生し、事件発生直後から捜査が尽くされたが、約1年後に一旦は不起訴。その後、2001年に入り、民事判決、検審の申立を経て、検察庁が再捜査して関係者の供述調書の巻き直し。証拠請求された供述調書は、その多くが事件後2年以上経過した2001年になってから作成されたものだった。しかも、2001年の各証人の調書には、かつての供述を変遷させ、あるいは、かつて述べていないことを付け加えるといった脆さが垣間見える。考えてみれば、事件後1年間の間に作成された証拠では起訴できなかったわけであるから、その供述調書の中に被告人にとって有利な事実が必ず隠されているはずだ。それらを全く見せないとは何とアンフェアなことか。進行協議のたびに早く開示すべきだと求めたが、検察官は杓子定規的に「現時点では出さない」と繰り返すだけだった。仏頂面でのうのうと述べる検察官に対し、「公益の代表者だろ!」などとブチ切れそうだったが、裁判官も私たちに対し「(弁護人の言っている)ご趣旨はわかりますけどね…」などと言うだけで、結局、こんなに特殊な事件でも、証拠開示がなされたのは、尋問の直前(主尋問と反対尋問を別期日に行った証人については主尋問後)であった。

★the other story の構築
 最重要証人であるAを崩せるかどうかでこの事件の帰趨が決まる。当然といえば当然のことだが、やはりAの尋問準備のために弁護団会議を何度も行い、議論を重ねた。反対尋問の時間はかなり長くなることを予想し、尋問は弁護団全員で分担することに決めた。
 被告人の記憶が断片的・曖昧であったため、弁護団会議を繰り返しても、本件の真相(全体像)がなかなか見えてこなかった。Aの供述調書は、反対尋問前に開示されたものも含め15通。さらに、民事損害賠償事件の保険会社の代理人から入手したAの証人調書もあった。多くの矛盾を孕んでおり、そのストーリーは全体としておかしかったが、Aが語っている1つ1つの事実のうち、どの部分が真実でどの部分が嘘なのかは、必ずしも判然としない。被告人の記憶がない部分は、議論しながらストーリーを構築してゆくしかなかった。それでも、本件は、他に誰か真犯人がいるという事件ではなく、真犯人(運転者)はAだ。それだけは間違いなかった。Aが述べる、被告人が運転者であることを前提としたストーリーと、Aが運転者だと仮定した場合にこうなるだろうというストーリー。後者のストーリーを、被告人の断片的な記憶を手がかりに、常識、経験則に基づいて構築していった。仮説の構築は、独り善がりになる可能性が高い。仮説に客観性をもたせることができたのは、納得するまで何時間も議論を重ねたからだった。この点は、弁護団を組んだ最大のメリットだった。議論によって検証できたからこそ、各尋問者は、仮説をよりどころとして自信をもってじっくりと尋問できた。結果的に反対尋問は、2期日(7~8時間)に及んだこともあり、尋問を分担したことは効果的だった。尋問のやり方もそれぞれ個性があったから、大嘘をついているAはかなり緊張したと思う。汗だくだった。公判供述自体が大きく変遷した。
 他の関係者に対する証人尋問の準備も同じようなことを繰り返した。たとえば、検察官が、運転交代の事実を立証する証拠と考えていた目撃者T。Tは、たまたまバイクに乗って通りかかって、加害車両が、駐車場と被告人宅の間の道路上で停車しており、Aが車外にいるところを目撃したという。TはAの知人だ。TはAに頼まれて作り上げられた証人なのか。それとも真実を語っているのか。TやAの捜査段階での供述経過を踏まえたさまざまな議論を通じ、さらにTの証人尋問を経てようやく、Tは、運転交代の事実を目撃したのではなく、Aが被害者を轢過した後、車体に痕跡が残っていないかどうかを点検しているシーンを目撃したのだ、とわかってきた。訴訟の初期段階から確信できたことではなく、議論や証人尋問を次々と重ねる中でようやくたどりついた結論だった。

★夜間検証
 弁護側冒頭陳述ののち、弁護側立証に入ったが、新たな人証を出せたわけではなかった。
 駐車場で被告人が加害車両に乗車しているところを見たというOの目撃証言の信用性が1つの争点になっていたため、検証申請を考えた。Oに対する反対尋問の結果、その証言の不自然さは出ているものの、こんなヘンな証言でも有罪認定に平気で使われちゃうのが刑事裁判の常。やはり不安だった。そこでOの証言を、客観的に不可能だとして完全に潰したかった。しかし、何回か現場を見てきて、天候や周囲の照明の状況、あるいは目撃する人の主観によって見え方も左右されると感じていた。検証が被告人に有利に働くのかどうか、確信が持てなかった。それでもマイナスにならない以上、現場を裁判官に実際に見てもらうことが肝心だとの結論に達し、検証申請。却下されるかもしれないと思ったが、裁判所は積極的だった。検証の実施方法に関する意見書を出し、検察官とこの点を詰めて検証に臨んだ。検察官はすでに法廷で証言したOを検証に立会させたい、と主張。私たちは、Oが意図的にA側に有利な説明・供述をする可能性があると考えOの立会に反対したが、裁判所は立会を認めた。
 月齢が近い日を決めて、ほぼ同じ時間帯の真夜中に検証を実施。検察官は警察官をたくさん動員して、事件当時の車の停車位置などをすばやく再現した。国家権力の採証能力の高さを再認識させられることになった。検証結果は、裁判所、検察官、弁護人の3者がそれぞれ肉眼で確認して合致したところを記述し、食い違うところは「両論併記」的に記述すると決まった。結果は、Oが目撃した地点から、Oが述べる目撃状況で、加害車両の運転席にいる被告人の顔を判別することはできないと結論づけられるものだった。最後に、裁判所がOの指示説明を求めたところ、Oは具体的に説明できなかった。かくして検証は大成功に終わった。検証調書は被告人に有利な証拠として弁論で引用することができた。

★感想
 この事件は控訴されず確定した。被告人は事件から5年半が経過してようやく汚名が晴れてよかったが、この裁判の期間中Aについては公訴時効(5年)が完成した。Aを起訴することも難しかったのかもしれないが、国家の結論に振り回されている遺族のお気持ちを考えると、とても複雑な気持ちだ(判決文は判例タイムズ1180号337頁)。

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